2012年6月27日水曜日

讃州生駒家家臣 上坂氏

上坂氏を名乗る侍は、都合六人確認することが出来る。内、二人が高松城郭内(内堀端)に、一人が高松城西浜に屋敷を拝領している。亦、六人全てが、家中騒動の際、藩主高俊に見切りを付け、藩を退いた。
上坂氏は太閤与力として讃岐に赴任した家柄である。為に、大阪滅亡までは、一万石を領し、豊田郡観音寺に居城があった。
因みに、この太閤与力という役職であるが、隣国の阿波藩では七家あり、それぞれ五千石の知行を有した。
大坂滅亡後、生駒家の家臣となるが、藩主弟(生駒隼人)と上坂勘解由の集中知行は、他に例を見ないものである。
合掌。



参考
観音寺市志 史料篇-1 生駒氏在国時代
高野山文書に見る生駒家襲封初期の侍名簿
幕府穏密の讃岐探索記録に見る生駒家上級家臣団名簿 
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」
上坂眞信著 「生駒騒動」
合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」  
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post_09.html
観音寺境内にある大日如来
讃岐・観音寺城
大西上野守(大西上野介)は、阿波を離れ、上坂丹波守の庇護を受け、晩年を観音寺で過ごしていた。
http://kanonji.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html




合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。




合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊より、当該資料を抽出した。









合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記(第四版1999年9月11日刊)より、当該資料を抽出した。

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